新日本プロレス旗揚げ戦『アントニオ猪木vsカール・ゴッチ』大田区体育館
「新団体を作りたい。シリアス・レスリングをする団体にする」
1972年3月6日、アントニオ猪木は新日本プロレスを旗揚げした。
「妥協なきシューター」カール・ゴッチと一騎討ちを決行し、その決意を日本のプロレスファンの脳裏に鮮烈に焼き付けた。
猪木がいる、カール・ゴッチがいる、
そして見よ! 山本小鉄がここにいる!!
フィギュアが入った箱の裏面に
1971年12月13日、アントニオ猪木は所属する日本プロレスから除名された。
日本プロレス乗っ取りを企てたとされ、追放処分となったのだ。
真相は当事者たちのもの。
誰に己を委ねて進むかも当事者たちのもの。
そしてプロレスファン一人ひとりにも、葛藤があったはずだ。
除名発表をする日本プロレスの記者会見に山本小鉄の姿はなかった。
この時すでに、山本小鉄は猪木の新団体立ち上げのために奮闘していた。
猪木の自宅の庭の草をむしり、池の錦鯉をすくい、そこに道場を建設した。
「軍隊より厳しい」と言われた新日本プロレスの道場。
その道場で選手たちを育てた「鬼軍曹」山本小鉄の文字がここにある!
旗揚げ戦で必要なリングを用意し、
そして新日本プロレスの象徴であるライオン・マークの原案を出したのも小鉄だった。
『プロレス鎮魂曲』著者 瑞 佐富郎 より
日本プロレス所属時代の1967年、星野勘太郎は山本小鉄とタッグチームを結成し、共にアメリカ武者修行の戦線を張った。小型でもパワフルである日本製の“ヤマハ“、
「ヤマハ・ブラザーズ」の誕生である。
1972年に山本小鉄は日本プロレスを離れ新日本プロレスの旗揚げに参加、1974年に日本プロレスが崩壊すると星野勘太郎も新日本プロレスに入団、再び二人は「ヤマハ・ブラザーズ」の契りを交わした。
闇市がはびこり物資を巡る諍いが続発し、神戸市警が山口組三代目 田岡一雄に一日署長を頼むほど街が荒れていた戦中戦後の神戸。その地に生まれついて培われた星野の、前のめりな“殴り合い”の精神。その負けん気の強さで、日本プロレス入門時には、力道山に「こいつ・・・強いぞ!」と言わしめた。
新日本プロレスの興行中に反社会勢力が滞在先ホテルへ殴り込んでくる、という揉め事が起きると、星野は自ら率先して応対した。結局は選手みんなでやり合って、しまいには猪木が延髄斬りをかました。
「舐められたら負け」そんな新日本プロレスを、ピンチの時には率先して助け、愛し続けた星野。
尊敬する猪木に「勘太郎だけは俺を裏切らない戦友」と言わしめた。
喧嘩屋 “突貫小僧” 星野勘太郎 「ビッシビシ行くからな!」
1980年に山本小鉄が引退し、ヤマハ・ブラザーズもその引退試合で解散したが、1992年に一試合のみの再結成、1994年にも再々結成し、小鉄・勘太郎のタッグの魂は新日本プロレスにあり続けた。
2003年5月1日ULTIMATE FESTIVAL東京ドーム大会のメインイベント、「新日本プロレスOBバトルロイヤル」で 勝ち残った2人は、小林邦昭をボディプレスからの体固めでピンフォール、「ヤマハは2人で一つ、2人で優勝」として、ヤマハ・ブラザーズの優勝となった。
山本小鉄は“鬼軍曹”として新日本の道場で多くの後進を育成し、
星野勘太郎は “魔界倶楽部総裁“として場外乱闘でパンチをかまし、新日本の地上波『ワールドプロレスリング』の視聴率を盛り上げ続けた。
2010年8月に小鉄、同年11月に勘太郎が、最期まで2人で一つのヤマハ・ブラザーズが、この世を去った。
「勘太郎はもうすぐ届くぞ!」ヤマハ・ブラザーズ再々々結成のため、館主は自宅郵便受けを行ったり来たりするのであった。
燃えサントラ&泣きロック酒場
新橋人形の館 ホームページはこちら
ヘヴィメタルを含むロックなどを軽く流しております
館主 いとう がお待ちしております