息ができないせいで、首の静脈が浮く。顔が赤くなる。熱くなる。額に汗が噴き出す。 シャツの背中に汗の染みが点々とにじむ。両手で喉をしっかりとつかむ。
窒息死しかけていることを表す人類共通のサインランゲージ。
「チョーク!」チャック・パラニューク 著/池田真紀子 訳
彼を『生んだ』母親は、自分が思い描いた何者にもなれないまま人生の終わりに向かっていく日々の鬱屈に耐えられず、不満だらけの社会に反抗し批判し唾を吐きかけ、人騒がせで身勝手で傍迷惑なイタズラ行為を闘いと名付け、繰り返し収容された刑務所から出てくるたび、社会の目から隠れるために必ず里親の元から幼い息子を“誘拐”し、一日中あてどもなく車を走らせて、渋滞を見つけてはその行列に身を隠し、夜ごとモーテルを渡り歩き、食事はすべてファストフード。
「生まれてこのかた、僕は母の子どもというより母の人質だった」
そんなある日の昼下がり、幼い息子は好物のコーンドッグを冷めないうちに食おうと、慌てて熱々のコーンドッグを丸ごと飲み込み、喉を詰まらせ窒息した。
おそらく窒息第Ⅰ期、数秒~数十秒の時間だろう。窒息したまま一分以上経ったら意識を失い仮死状態になってしまう。その数十秒間、出所後あてどもなく少年を車で連れ回して、この田舎のアメリカ式安レストランに辿り着いた母親をはじめ、そこに偶然居合わせた全員が、この“間抜けな少年“に注目した。
『生んだ』母親や里親に教えを乞わずとも、この“間抜けな少年”にも生まれつききちんと備わっていた窒息死寸前のボディ・ランゲージ。
この人類共通のサインランゲージは、何処とも知れぬ田舎の安レストランで、中年のウエイトレス、初老のセールスマン、長距離トラックの運転手とヒッチハイカー、そして出所したてのホッカホカな母親、等々、居合わせた老若男女全員に通じたのである!
映画「セックス・クラブ」2008年/
原作 チャック・パラニューク「Choke!」
母親に背中から抱きかかえられ、喉に栓をしていたコーンドッグの塊をポンと吐き出し、「ヒイィッ!」と息を吸い込み窒息第Ⅰ期から回復した少年は、思い切り泣いた。
レストランに居合わせた全員が、少年の周りに集まり、少年を抱きしめ、少年の髪をなで、誰もが「大丈夫か」と尋ねた。
“間抜けな少年”には、全世界が自分の身に起きたことを気遣っているように思えた。その瞬間は永遠に続くように思えた。愛を得るためには命を危険にさらさなければならない、救われるためには死の淵に立たねばならないように思えた。
しかしその次の瞬間には、ウエイトレスがこの“間抜けな少年“が牛乳パックに印刷された写真の子どもであることに気づき、ウエイトレスがそれに気づいたことに写真の子どもを“誘拐”した母親が気づき、慌てて少年を車に押し込みハイウェイに乗って逃げた。
再びあてどもなく車を走らせ夜の真ん中の地の果てまで逃げた母親は、少年に古代ギリシャの伝説にある恋人たちの真似ごとの相手をさせた。
母親は、ハイウェイの売店で買ったスプレー缶の噴出口を人差し指で押さえ付けて黒い塗料をシュウシュウ出しながら、このエキセントリックでくだらない真似ごとの大いなる意義を弾丸のように少年に浴びせ聞かせる。半裸で身を震わせている少年をヘッドライトの眩しい光の前に立たせ、背後の絶壁に映る少年の影をなぞり、シュウシュウシュウシュウ音を立てて、スプレー缶を握る手を忙しなく動かしながら。
古代ギリシャのコリントスの町シキュオンの陶器師の娘が、海外の戦地へ旅立つ青年との別れを悲しんで、ランプの光で壁に映し出された恋人の影をなぞり形見を残した。それが大いなる芸術、絵画の始まりだという。
こうして母親と少年の“シンボル”が生まれた。離れて立っている距離の分、少年の影は実物よりはるかに大きく映っていた。母親はこの馬鹿馬鹿しい“シンボル”を描きながら、少年に栄光に満ちた未来を約束する。
少年は、いつの日か、母親がスプレー缶の黒い塗料でシュウシュウ描いたこの馬鹿馬鹿しい“シンボル”の輪郭のとおりに成長すると。
「あなたはいつの日か、私が教えたすべてを人々に教え、人々を幸福と平和の手に返し、あなたはいつの日か、人々を救う医者になり、人々の尊敬を受けるようになる」「いつの日か、私たちの努力は報われることになる、保証するわ」と。
“愚かな少年”は、イースター・バニーやサンタクロースを信じなくなってからも、ずっとこの母親の言葉を信じ続けた。起こり得ない、あり得ないことであってもそれが約束されていると信じることができた。
何年かして少年は猛勉強のすえ医科大学に入学したが、母親は一世紀前までは修道院だった精神病院、月三千ドルもかかる耐逃亡設備完備の聖アントニー・ケアセンターに入院した。
「トリクロロエタンが、大脳皮質や小脳の邪魔な機能を取り除き頭の内側で生きる複雑さを解消する、知識への最良の治療薬よ!」分かり難いが要するに、脳幹だけを使うことを人生最大のゴールとした母親。海綿は、決して不愉快な一日を経験しない。
「私のゴールは、人々の興奮のエンジンになることよ!」と、LSDをのっけるために付けている舌で更生の見込みのない台詞を判事に向かって言った母親。
「親であることは、大衆向けのアヘンね!」
そうしたゴールを目指した結果、精神病院にゴールした母親の入院費用月三千ドルを稼ぐために、医学部二年、二十四歳で少年は大学をやめた。
“愚かな少年時代”を過ごした彼は、そのまま時を止めて、永遠にその場にとどまろうとした。ドリアン・グレイとその肖像画のように。
映画「ドリアン・グレイ/美しき肖像」1970年/原作 オスカー・ワイルド
ドリアン・グレイを演じるヘルムート・バーガー。
「地獄に堕ちた勇者ども(1969年)」で組んだルキノ・ヴィスコンティ監督は尊敬する師であり、恋人でもあった。
訪ねて行けば、何時でも痴呆症の母親が逃げ出さずにいる脱走不可能なアルカトラズ、聖アントニー・ケアセンター。80年前の幼児期に受けた性的トラウマに囚われて時を止めた入院患者たちと一緒に、同じ時刻、同じ曜日に、同じ夕食メニュー、過去を繰り返し、繰り返し。
彼は、母親が死ぬことも回復することも許さない。母親が死んだら、取得単位の有効期限が切れる前に医学部に戻りたいか戻りたくないかも、彼にはわからない。
今、母親は彼のものだ。死んだり回復したりして逃れさせたりしない。彼は、彼を必要とする人間が一人欲しい。それが母親を寝たきりにしておくことを意味するとしても、彼は、彼がいなくては生きていけない人間が一人欲しい。一度だけのヒーローではなく、継続的な、誰かの救世主でありたい。
「お母さまを弱いままにしておきたいのね。
あなたがいつでも支配していられるように」
「神になりたいと言っているように聞こえるわ」
これから先に起こり得る、取り返しのつかない方向に転がりかねない全てのこと、気楽でいられなくなる以上のことを知ったら、人生は生きるというより待つものに変わる。
彼の頭はその考えに囚われた。癌や痴呆や老化、取り返しのつかない出来事のあれこれ、いずれやって来る死。医学部を二年で退学した彼は、その間に得た知識が頭で肥溜めを作ったために、その恐れに囚われている。愚かな少年時代に母親から約束された栄光に満ちた未来、医学部の学生であったという過去に永遠に囚われている。頭の内側が抱える病、知識への治療薬。
「いったい、どこまで恐がればいいわけ?」
それを肥溜めの中で待とうが待つまいが、いまより若くなることはない。不運は巡ってくるし、歳は勝手にとっていく。
彼の職場は三世紀前の植民地時代のダンズボロ。清教徒と緋文字と魔女の火あぶりの時代の村で、彼はアイルランド系移民の年季奉公人に扮して、時給六ドルで働いている。仕事仲間は大勢のありふれた演劇部タイプ。ヒッピーかぶれの麻薬常用者たち。
現実社会ではまっとうに生きていけない変人たちが、負け犬集団となって隠れ住む場所。強迫的な集団行動で救済を見つけようとしている18世紀を、権力と恥辱のゲームで再現している。
ナサニエル・ホーソーンの小説「緋文字」
写真はヴィム・ヴェンダース監督の映画(1973年)より
彼の親友は、毎日、同じ時刻にさらし台にくくりつけられ、課外学習で見学に集まった小学生達に笑われている。親友とは、いつまでも、この糞・Shitな職場について同じ文句を言い続けたい。それが彼の日々の慰めになっているので、親友だけが先にこの糞ダンズボロから追放され、それを見送って一人ぼっちで置き去りにされたくない。だから彼の親友がこれからもずっと、さらし台から逃れられず身動きが取れないように、彼は彼の親友の親友として見張っている。
彼は我を永遠に崇めよと求める救済者、彼は我が子が大人になるのを望まない親だ。
ここにいれば、永遠に登場人物の年齢と設定は変わらない、不自然な永遠に囚われたビューティフル・ドリーマー、涼宮ハルヒの終わらない8月。
一つの場所に永遠にとどまるには、時間を止めること。過去を忘れ、過去を繰り返すこと。
以前から噂だけ耳にしたことがある人々。世間があきれたジョークだと笑う人々。世間が都市伝説と信じている人々。性的強迫神経症患者。セックス依存症。セックス中毒者。
こうした人々は我々が日常的に微笑みながら握手を交わす大勢の中に実在する。”間抜けな少年時代“を送った彼もその一人だ。
偶然でランダムな災害や病気がいつ誰の身にふりかかるかわからないこの世界で、中毒者は自分を待っている運命、全く予想外の原因で死ぬ恐れから、中毒が中毒者を守っている。ある意味で中毒者であることは、きわめて前向きな生き方だと彼は思う。
中毒者は、酔いやハイや空腹以外は何一つ感じないまま生きて行くことがある。何一つ関心を持たないことが悲しみや怒りや恐怖や不安や絶望や憂鬱から中毒者を守っているので、中毒は現実味のある選択肢だと彼は思う。その瞬間をやり過ごす。衝突を避ける。逃げる。人生を乗り切るのに似ている。
セックス中毒者は、セックスの中毒者なのではなく、行為によって体内から分泌される脳内モルヒネと呼ばれるエンドルフィン、危険や恐怖を引き金に全身に放出される神経伝達物質ペプチドフェニルエチルアミンを渇望している体内麻薬中毒者だ。
その数分間は、彼が人間らしくいられる短い数分で、この短い数分の間、彼は孤独を感じない。しかし短い数分間が終わると、互いを憎み、それ以上に自分自身を憎む。アルコールもドラッグも過食も賞味期限が切れれば、腐臭が漂う自分自身を憎む。
数分間の体内麻薬分泌後には、自分自身を憎む、孤独で長い時間が中毒者を待っている。
『チョーク!』 彼の救難信号。痴呆症の母親の入院費用三千ドルを稼ぐためを言い訳にした、“間抜けな少年時代”を送った彼が身に付けたサインランゲージ。
レストランでコーンドッグやステーキ肉の大きな塊を喉に一気に詰め込み窒息して人類共通のボディ・ランゲージで救いを求めれば、仁慈と憐みを必要とする者を誰彼問わず助けて愛するように命じられた隣人、右や左のテーブルに座っている善きサマリア人が彼を助けてくれる。
「おまえがこれをやるのは幼稚だからだ」
善きサマリア人たちに少額ずつ金を出してもらうねずみ講。“間抜けな少年時代”を送った彼独自の生活保障制度。
命を救ってくれた人物は、彼に手紙を書く。バースデー・カードを送る。つつがなく暮らしているか知りたがり、電話をかけてくる。いったん命を救った相手にはこの先の年月永遠に責任を感じ、励ましや、現金が必要ではないか、それを知りたがる。必要なら小切手を届ける。コーヒー1杯のお金で外国の子ども一人の命を救うチャリティのパクリ。但し一度だけでは他人の命は救えない。人々は繰り返し繰り返し、彼を救わなくてはならない。
弱いふりをすれば、力を得られる。そのためには、か弱く、感謝に満ちていればいい。社会の弱者、虐げられた民であり続ければいい。積極的な犠牲者、無惨な負け犬、プロの敗残者であらねばならない。ただ打ちひしがれ、恐縮し、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。一生ずっと人に言い続ければいい。
「僕は知ってるんだよ。僕はイエス・キリストだって」
彼は、自分がどこから来たかを知りたかった。彼をこの地上に目掛けて発射した偉大なる父、包皮の持ち主のことが知りたかった。拒食で痩せこけた痴呆症の母親が、文字どおり軽く小さくなって目の前から消えかかっている今、父親を知ることが彼には必要だった。
大学へ入るためにイタリアからアメリカへ渡り、彼が生まれたあと二度と帰らなかった母親が、イタリア語で綴った赤い表紙の日記。そこに彼の知りたい全てが書いてある。おそらく母親はイタリア系カトリック。そのお相手、彼の創造主である父親は誰なのか。
「三位一体を信じるなら、あなたがあなたの父親よ」
父と子と精霊。聖アントニー・ケアセンターの女医、ドクター・ペイジ・マーシャルが、彼にそう告げた。ペイジ・マーシャルは、イタリア語で書いてあるため彼が読めない日記を彼のかわりに読んで、そう告げた。母親の妄想は深くて、彼のことをキリストの再来だと心から信じているという。
日記によれば、母親はイタリアから渡ってきたとき、すでに彼を妊娠していた。それはイタリア北部の教会に誰かが侵入し、宗教的遺物を盗んだ翌年だった。
イエス・キリストの包皮、乾燥ペニス。日記によれば、六人の女性にこの遺伝物質から作られた胚が提供された。六つの胚のうち、唯一出産に至ったのが彼だという。
聖アントニー・ケアセンターの女医、ここで神に告白すると真実は精神病院の女医に”扮している“ドクター・ペイジ・マーシャル、彼女が教えてくれた如何ともし難い自分の出生の秘密を聞いてしまってからというもの、彼は懸命になって自分が神の子ではないことを証明しようとした。そもそもする必要などまったくない証明のために、彼は今まで以上に馬鹿馬鹿しい行為にいっそう力を注ぎ込んだ。
「イエスなら、何をしないか」
なぜ?
彼は信じた。なぜなら、“愚かな少年時代”を過ごした彼は、起こり得ない、あり得ないことを信じることができた。信じることができてしまうのだ。
奥まで入り過ぎて彼の肛門から永遠に出られなくなった2つのゴムボール。
「イエスなら、これをしない」
お見事。神の子ではないことを証明するためにシコタマ励んだ行為の成果がそこにあった。
こんな大笑いで間抜けな腹痛の原因を抱えた彼は、もう充分に、神の子ではない証明を体現できていた。セックス中毒者の都市伝説をこしらえて。
しかし、それでも彼はまだ、あり得ないことをあり得る、不可能は可能である、と信じることができた。
「イエスは、失敗だらけの少年時代を過ごしたあと、ようやく初めて奇跡を正しく行えたのだとしたら?」
「イエスは三十歳を超えて初めて、有名な奇跡をやすやすと起こせるようになったのだとしたら?」
老いた痴呆症の母親の死が免れないなら、父なるイエスの包皮を信じるまでだ。難解な三位一体、人々から救済を乞われる神そのものになる。
たとえ母親が死んでしまっても、誰かから永遠に必要とされる存在になれる。
「真実を言えば、僕は事実上、母のグリーンカードだ」
やがて彼は、ドクター・ペイジ・マーシャルが医者ではなく患者だと知る。
「ドクターなのだ。遺伝学のスペシャリストなのだ。2556年から来たのだ」と彼女は言った。彼女が彼に話したことは、すべて彼女のでっちあげだった。
彼の父は神の包皮ではない。彼は神の子ではなく、彼は神ではない。
やがて彼は、彼を『生んだ』母親が彼を『産んでいない』母親だと知る。
「私はね、アイオワ州ウォータールーでベビーカーからあなたを盗んだの」
と母親は言った。彼はイタリア系ですらない。
彼はどこから来なかったのか、
すべてが晒されたとき、奇跡は起こった!
『チョーク!』ケチャップの瓶の蓋を飲み込む。窒息する。
自分はどこから来なかったのか、知ってしまった彼の救難信号。幼稚な彼の緊急事態。
「イエスなら、何をしないか」
彼を助け愛するよう命じられた善きサマリア人が、彼の腹に圧力を加える。善きサマリア人が彼の背中を叩き、彼の口からケチャップの瓶の蓋がポンッ!音を立てて飛び出す。すると彼の頭の肥溜めの栓もポンッ!と飛び出した。
善きサマリア人が加えた圧力で彼の腸は暴発し、永遠に彼の腹の肥溜めに閉じ込められたままかと思われていた2つのゴムボールは彼の肛門からこの地上へと見事に発射され、それに続いて彼の頭の肥溜めと腹の肥溜めの中身が合流して勢いよく飛び出し、天上から地上へとばら撒かれた。
こうして彼は繰り返し繰り返し囚われていた肥溜地獄から、2つのゴムボールに救われた。
彼の頭の肥溜めは空っぽになった。たぶん、知ることは重要じゃない。
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ヘヴィメタルを含むロックなどを軽く流したりしております。
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